田岡総研文書ファイル

なぜ悪い事をしてはならないか
 「最後の審判」という言葉があります。死んだ後、裁判を受け、生前の生き方によって天国に行くか地獄に行くかが決められるそうです。(ちなみに、聖書では、最後の審判の日が到来して、全ての人を一遍に裁くとなっています)
「最後の審判」のようなものが果たして本当に存在するのでしょうか。存在するのです。
ただし、裁判長は物語に出てくるような神様でもないし、閻魔大王でもありません。裁判長は自分なのです。
人間として社会生活を営んできた人であれば、どんな人にも「良心」と言うものがあります。
また、「良心」は教育によって得たものだけではありません。本能としても備わっております(孟子は誰にでも本能的に「良心」が有る事を説明する為に、井戸に落ちそうになっている子どもを見た人は誰でも、必ず助ける事を挙げています)。
どんな悪人にも、必ず少しの「良心」はあります。
人に迷惑ばかりかけ、人を裏切り、ひどい事ばかりしていると、表面的な意識ではわざと悪ぶって、気にしていないように思っていても、必ず心のどこかに「良心の呵責」が生じます。
誰にでも「良心」が備わっている事は、人は皆、必ず親から生まれたという事実からも、容易に想像がつきます。
生きている時はあまり意識していなかった、もしくは意識に上がっても自己を欺き意識しないようにしていた「良心の呵責」が死ぬ時の一瞬、思い出されて、自分を責めるのです。
しかも、全ての罪の記憶は克明に蘇るようです。
自責の念はとても強く、自分に罰を与えなくては気が済まなくなり、自虐のイメージを頭の中で描くそうです(これが、いわゆる地獄のイメージです)。
自分で描いたイメージといえども、実に現実的で、地獄の熱湯は熱く、火炎により皮膚はただれ、のたうち回るのです。
肉体が滅んでも、その強烈な想念だけが未来永劫続く(無間地獄)といいますから、こんな恐ろしい事はありません。これが最後の審判の正体なのです。
だから、日頃からどんな小さな悪事も働くべきではありません。嘘をつく、人を欺く、人のものをとる、約束を破る、人を傷つける、これら全てが、最後の審判の悪材料となり、後悔する事となるのです。
  私たちはいつ死ぬか判りません。最後の審判の日もいつやって来るか判らないのです。
殺人など、凶悪犯罪が増え続ける昨今ですが、犯罪者は必ず、地獄に落ちます。
 人は騙せても、自分を騙す事はできません。最後の審判とは、決して欺く事のできない、公正な審判なのです。

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