田岡総研文書ファイル

孟子という人物と書
 孟子は西暦紀元前372年(推定)鄒(すう:孔子の生まれた「すう」とは字か異なる)で生まれた。
   鄒(すう)はもともと春秋時代の小国で、孟子の時代になって鄒(すう)と改められたのである。この国は魯(ろ)に近く、その後魯(ろ)に合併されたという説と楚(そ)に合併されたと言う説がある。また孟子は魯の国の公族、孟孫子の子孫であり後に衰えて転転としたと言う説もあるが真実は定かではない。
 孟子は、性は孟、名は軻(か)、字(あざな)は伝わっていない。生まれながらにして立派な素質があり、早く父を亡くして、幼い時は慈(いつくしみ)しみ深い母親から教育を受けて育ち、成長して孔子の孫の、子思(しし)の門人を先生として孔子の学問を修め(易・書・詩・礼・春秋の)5つの経書に通じ、特に詩経と書経とに優れていたという。
 周が衰えてからの世の中はいわゆる戦国の世となり、軍隊をつかって大国になろうとした諸国は権謀術策(けんぼうじゅっさく)に長けた者ばかりこぞって登用し、道徳の大道を修めた人物は登用されなかった。よって諸国は互いに侵したり奪ったりばかりにあけくれ世の中は益々乱れた。正しからぬ学説や思想が次々と起こり、でたらめな根拠のない言説で時代をあざむき民衆をまどわした。
 これを見て孟子は、堯(ぎょう)・舜(しゅん)(共に書経虞(ぐ)書に登場する伝説上の聖王)・禹(う)(舜の後継者で書経夏書に登場する。夏王朝を作る)・湯王(とうおう夏王桀(けつ)を倒し殷王朝を作る)・文王(ぶんのう:周の開祖)・武王(文王の子。周王朝を作る)周公(しゅうこう。武王の弟)・孔子など(かつての)聖人の立派な業績がまさに再び沈み衰えようとしてして、正しい道がふさがりとどまり、仁義の徳がすさみすてられ、口達者な虚偽(きょぎ)の思想が気まま勝手に横行していることをおおいに悲しんだ。
 そこで孔子が(かつて)時代を憂いて諸国を遊説した事にならって、孟子もまた、儒家の道をもって諸国を旅し正しい道を説いた。幾つかの国で王に謁見(えっけん)し、多くの国王は孟子を尊敬し話を聞いたり、客卿(かくけい:外部大臣)として迎えた。しかし、孟子の仁政を願う譲らない姿勢はたびたび諸国王を当惑させ「自分はいにしえの聖王にはなれない」と途中で諦めたり、孟子の頑固さについてゆけない者に対しては、孟子も自分の理想世界の実現への道を譲らなかったので、その国を去ることになった。(滕(とう)の文公など礼を厚くして孟子を迎え、教えを乞うて、実際の政治経済の運営に成功した国王もあった)
 各国を旅して、その都度多くの国王に少なからず影響を与えた孟子であったが、晩年には、自分の生きている時代では理想の世界の実現は無理と悟り、将来の世の為に人間の規範になるような立派な内容を書き残し7篇(上下14巻)、261章、3万4千6百85字にわたる書を完成させた(これを後に孟子という)。
 この書の内容は孔子になぞらえてあり、天地間の事をもれなく含み、万物の間に筋道をはかりたて、仁義道徳・性命禍福など、全てを明らかにしている。
 孟子が死んだ後、世はますます乱れ、仁義はすたれた。秦の時代に入った後、始皇帝は経学の書を焼き滅ぼし、儒者を穴埋めにして殺したので、孟子の学徒はすっかり尽き果ててしまったが、幸いにも孟子の書は「経学」の書ではなく「諸子」と名づけられていたので焼かれずに済んだ。孟子の書が日の目を見るのはさらにその後の漢の時代である。
 漢の王室(劉)が勃興してからは秦の暴虐な禁令をことごとく廃止して道徳を大いに興し盛んにしたので孟子は読まれるようになった。
 「仁義」を全巻通じてのテーマにすえたこの書「孟子」を整理しその紹介文「孟子題辞」を書き、孟子の注記を書いた趙岐(西暦紀元後201年:(後漢)90余才で没)は「数ある儒家の中でひとり孟子だけが甚だ雄大で奥深く、言うに言われぬ妙(たえ)なるものがあり、その奥底は、たやすくは分かりにくい」と高く評しており、ずっと後の朱子学では「4書5経」(当時の儒教の教科書)の「4書」に配されるに至った。

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