| 田岡総研文書ファイル |
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| 半生 |
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40才になった。人生80年ともいうので、丁度半生を生きた事になる。記憶が正しい内に、今までの思い出話を綴りたくなった。 小学校のころの私は出来が悪く、素行が悪く、先生にも相手にされなかった。ところが小学校5年のクラス換えで、恩師鳴井先生に出会ってから人生が一変した。人との出会いは大切である。先生からいろいろ学んだ。 中学に入ると、母親は私に家庭教師をつけた。母は尋常小学校しか出ていないので、子供には勉強をさせたかったらしい。当時我が家は貧乏で、1ヶ月の生活費が1万円であったのに、家庭教師料に1万5千円も払っていた。 事情を察した私は中学1年の内に3年間の勉強を行った。よって成績は常に良かった。 中学2年生のとき手稲東中学校に転校した。とても評判の悪い中学校であった。 中学校2年生のころは、子供から大人に変わる年である。仲間意識が芽生える。転校した先の学校にはいわゆる悪い奴が多く、私はすぐに仲間に入った。彼らは総じて成績が悪かったので、私もあえて成績を落とした。試験の時にわざと間違った解答もした。授業中あてられても答えなかった。その方が仲間と同じ境遇を得る事が出来たのである。今から思うと「そこまでやらなくとも」と思う事まで彼らのレベルに合わせて行なった。その頃は大人のやる事が何もかも気に食わなかった。同年代の仲間の方が大事だった。 中学3年になると私もいっぱしの悪であった。中学の先生には常ににらまれていた。 中学の先生にはろくでも無い人が多くいた。今から思い出しても腹が立つ連中であった。先生に尻を触られた女生徒からの相談には、「今はしょうがないから我慢しなさい」とアドバイスした。人間性で生徒を魅了できない大人達は「内申書に響く」を合言葉に、すき放題私達を翻弄させた。同級生には少年院に行った者、鑑別所に行った者が多数おり、私もすんでの所でまぬがれた。 私は学業成績は悪かったが実力はあった。校内での評価が低いのに、校外の模試ではいつも、手稲東中学の参加者中トップの成績を取る私に、先生達は不思議がっていた。進学志望校は札幌西高校であった。当然受かる自信はあった。 先生達は、札幌西高校への出願を認めなかったが、自分で出願すると言って無理やり受けた。ある先生は、ひいきにしている生徒が受験に失敗するかもしれないと心配して、どうせ落ちるであろう私の成績をその生徒に振り分けて、その生徒のランクを上げたいと私に相談したので、受け入れた。私はDランクからEランクに落ち、彼はCランクからBランクに上がったが、同じ高校をうけて、私は合格し、彼は落ちた。その時私は先生の評価より実力の方が勝つ事を知り、現在に至っている。 高校へ行って愕然とした。上には上がいるものである。札幌西高校には天才のような奴がいる。私が受けた年は合格者平均点が札幌北高校より高かった。 高校に入って閉口したのは英語の授業であった。極端に難しくなった。ついて行けないと感じた。 それからの3年間、私はラグビー1本で通した。学業成績の悪い私であったが、当時の西高の先生には温情のある先生が多く、雪かきで単位をもらった。 我々のラグビー部は強く、札幌大会で惜しくも当時最強の札幌清田高校に敗れ2位、全道でも清田高校についで2位の実力であった。 ラグビー部があったからこそ、中退しないで済んだ。ところが今から思えば、一緒に汗と涙を流したラグビー部員には優秀な者が多く、北大、小樽商科大、室蘭工業大などに彼らは進学していった。やはり西高生は頭がいいのである。私は卒業後、東京へ板前修業の旅に出た。 板前修業は1年で挫折した。どの世界へ行っても上には上がいる。逃げ道はないと悟った私は、あれほど嫌だった勉強をした。その頃実家は生活保護を受けており、息子が受験勉強をしている事など、市役所の職員に知られたら生活保護を打ち切られるとの事で、私は隠れて勉強した。当時出店件数を増やしていたコンビニエンスストアで夜のレジ打ちをしながら、それ以外の時間は飲まず食わずで勉強して、翌年、明治大学商学部に入学した。 大学時代は楽しくて辛かった。楽しかった事は全国から面白い奴等が集まっていた事、今までの生い立ちも生活様式も違う。当然、世界観も違う。異質の人間に出会う事は自分の人生観の幅を広げるのに役立つ。 私は壇上弁論の雄弁部に入った。面白い奴が沢山いた。私の大学4年間の楽しい想いでは全て雄弁部の想いでと合致する。 辛かったのは、金も無いのに大学へ行った事。生活費と学費を稼がなくてはならない。おかげで大学生の内にビジネスを学んだ。大学3年生の頃は最低月収30万円は稼いでいた。よって辛かったのは1年と2年で、3年、4年は楽しかった。 雄弁部のOBが部室に遊びに着た時に「諸君等は楽だ、社会人になったら辛い」といったが、私は社会人になってからのほうが楽だった。生活費だけで済むようになったからである。 大学を卒業してコンピュータ会社に入社した。とてもいい会社であった。大企業は社員教育が充実している。おかげで沢山学べた。大学時代は学費を払ってもアルバイトが忙しくてまともに授業には出られなかったので、給料を貰いながら勉強できる事に驚いた。 その会社も4年で退社、真の実力を発揮しようと自分で会社を作った。 独立して13年。色々あったが、面白い事ばかりである。全ての事が自分の意思で決められる。自由である。不安など無い。今までに比べたら、こんな楽なことはないのである。 今後の半生はどうなるのであろう。80才になったときにふりかえろうと思う。 ***** 著作権表示:株式会社田岡総合研究所 田岡將好 ***** この文章をコピーしたり、配布したり、社員研修等で使っても多いに結構ですが、 著作権表示を消さずにお使い下さるようお願いします。(http://www.taoka-s.com) |